IHANOYA DIARY

2004年10月03日 また、泣きながら書いています。

:金曜の夜、祖父が亡くなりました。
:祖母が亡くなって、来月で一年になるところでした。祖父と祖母は「先に逝った方が半年で迎えに来る」と約束していたそうですから、少々遅れて祖母が迎えにきたのかもしれません。遅れたのは、僕らを気遣ってのことでしょうか。
:祖母が長年患っていたものですから、祖父は「先に死ねない」とずっと頑張ってきました。祖母が亡くなったあと、気力も尽きたのでしょう、衰えが激しく、最後は思いもよらぬ腎不全が体力までも奪いつくしてしまいました。もとより心臓に持病を抱えていたのですが、最期の瞬間、呼吸は止まったのにしばらく心臓が動き続けていたのは、皮肉というしかありませんでした。
:祖父は、僕が一番尊敬していた人です。
:とにかく苦労してきた人でした。親に恵まれず、また戦争にも二度駆り出されました。家具職人をやっており体は頑丈であったため、そういった苦境を乗り越えることが出来たのだと思います。何せ84歳まで自転車で走っていたし、最後まで背筋はピンと伸びていました。
:その苦労あってか、とても気遣いの出来る人でした。いつも、人より先回りして気を配り、自己犠牲の気持ちが強い人でした。子にも孫にもいたずらに頼ろうとしません。そればかりか、自分の二人の子供とその結婚相手、そして四人の孫の誕生日は必ず覚えていて、その日には何歳になっても小遣いをくれました。祖父の部屋に残されたカレンダーには、今月の僕の弟の誕生日と12月の母の誕生日に、印と名前が書かれてありました。
:職人生活が長いと言うと、頑固だと思われがちなのですが、そういった小難しいところは一切ありませんでした。母は怒られた記憶がないというし、僕もそうです。とにかく優しい。でも、恩着せがましい優しさではなく、ふと気付けば感謝しているような、そんな自然な優しさでした。そして、それでいて「怒ったら恐いだろうな」と思わせる強さがありました。
:祖父は、僕の理想の男の姿です。誰からも頼られ、慕われ、そして誰をも傷付けることのない男の姿です。
:あの夜、祖父の死の報を聞き、弟が大学から駆けつけました。四人の孫の中で、一番祖父に面倒をみてもらったのは弟です。弟が小さい頃、祖父は離れた家からわざわざ来て、保育所の送り迎えをしてくれていました。両親が働きに出て、僕も学校へ行っている間、祖父と弟が家で皆の帰りを待っていました。普段は感情を表に出すのが下手な弟ですが、祖父の死に顔を見た途端、声を漏らして泣いていました。母すらその姿に驚いていたのですから、僕には到底追い付けない思い出が、弟にはあるのです。
:祖父の顔を見て、ただただ出てくるのは、「ありがとう」という言葉ばかりでした。天国へ行って、祖母ともう一度仲良く過ごしてくれたらと切に願っています。そして、いつか僕もそこに加わって、もう一度家族になれたらと思っています。

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