IHANOYA DIARY

2004年10月30日 買い替え気分。

:忙しくて書けなくなってから、書く習慣のリズムが狂ってしまい、なかなか日記を書けない今日この頃。
:今日は法事でした。祖母の一周忌と祖父の30日(宗教上そういうのがあるのです)。家族四人、父の運転する車に乗って移動する訳ですが、その車に関して、そろそろ動きがありそうです。
:我が家の自家用車は「トヨタ スプリンター・マリノ」です。購入したのは98年。その時点で3年落ちの中古でした。当時、免許を取って間もない僕のたっての願いから、購入費は両親と僕とで折半し、名義は僕となっています。(なので、今のユーノスは文面上サイドカー扱いだったりする…)
:そのマリノももう10年選手。父・僕・弟が代わる代わる運転したせいで、車の状態もあまり良好とは言えないところまで来ていまして、ついに今月中での買い替えを検討しているんです。
:買い替えを検討し始めた去年は、まだ祖父母合わせて4人健在だった訳で、まず僕が候補として推したのが「トヨタ ラウム」でした。父は、「スタイリッシュ」とか「パワフル」とかはどうでも良く、「多機能」とか「安全性が高い」とかのほうが好きらしいので、「ユニバーサルデザイン」を売りにしてカタログも実に"説明的"なラウムには、なかなか好感触を示してくれました。今年になって、マツダ好きの僕としては「ベリーサ」を推したかったのですが、ちょっと父にはアピール度が低かったようです。
:葬式や法事で週末に家族で移動する機会が増え、父にも僕にも急速に「買い替え気分」が増してきたところなので、おそらくこれからしばらくはこの日記にも「ラウム」の名が頻繁に登場するでしょう。まぁ、ユーノスオーナーである僕にとっては、一応ラウムは無関係な存在ではある訳ですが、それでもとりあえず乗ってみて、(10年モノのユーノスとは違う)新しいクルマの快適性とやらを堪能したいと思っています。

2004年10月22日 ご無沙汰してます。

:祖父が亡くなって、はや二十日。あれから我が家には写真が三枚増えました。一枚は20年ほど前、祖父が1人で写っている写真。もう一枚は10年ほど前、祖母と母が二人で写っている写真。そして最後の一枚は、今年5月、叔父一家とともに祖父を彦根へ連れて行ったときの僕が撮った集合写真です。写真というものの価値が、生まれて初めて分かった気がしています。
:あれからの二十日間は、嵐のような日々でした。祖父の葬儀明けは仕事尽くめ…。案件を2つ抱え、さらに同僚のヘルプもするので、FLASH担当メンバー(一応"モーションデザイングループ"と言うらしい…現在3名)は1人あたま2.5件くらいの案件を同時に進めていました。しかも、納期がいずれも10月半ば~末に掛けてと重なっており、「休むくらいなら仕事しているほうが気が楽」という状況で、ほぼ毎週、休日を返上。その間に僕は唇が荒れ、口角(口のわき)が両方とも切れ、不眠症に陥りました。ある同僚は肩に塗ったシップ薬が体に合わず炎症を起こし、またもう1人の同僚は歯医者に行けず虫歯が悪化…。まさにFLASH部(このほうが言いやすい…)は泥沼を泳ぐがごとくのたうちまわっていたのです。
:最近は、ほんの少し落ち着いてきました。ただ、これが次の山に向かう前の小さな休息所に過ぎないらしいことは、もう分かっているんですけど。
:僕個人で言えば、この期間をなんとか倒れる寸前で乗り切れたのは、同僚の協力もさることながら、祖父のことをずっと考えていたからだと思います。職場復帰初日は仕事中に祖父のことを思い出し、一旦席をはずすこともありました。でも、とにかく仕事はきっちりやる祖父でしたから、こんな事では叱られるんですよ。だから今は、祖父のことを思い出すことでより仕事に身を入れられるようになってきました。あんな素晴らしい男にはなれないけれど、せめて見習って生きていくというのが、あの祖父の孫に生まれた責任です。
:明日・明後日は一応休日な訳ですが、明後日にクライアントから昨日出したFLASHの修正リストが上がってくるそうです。なので、明日だけ、何も仕事のことを考えず、久々に休もうと思っています。

2004年10月03日 また、泣きながら書いています。

:金曜の夜、祖父が亡くなりました。
:祖母が亡くなって、来月で一年になるところでした。祖父と祖母は「先に逝った方が半年で迎えに来る」と約束していたそうですから、少々遅れて祖母が迎えにきたのかもしれません。遅れたのは、僕らを気遣ってのことでしょうか。
:祖母が長年患っていたものですから、祖父は「先に死ねない」とずっと頑張ってきました。祖母が亡くなったあと、気力も尽きたのでしょう、衰えが激しく、最後は思いもよらぬ腎不全が体力までも奪いつくしてしまいました。もとより心臓に持病を抱えていたのですが、最期の瞬間、呼吸は止まったのにしばらく心臓が動き続けていたのは、皮肉というしかありませんでした。
:祖父は、僕が一番尊敬していた人です。
:とにかく苦労してきた人でした。親に恵まれず、また戦争にも二度駆り出されました。家具職人をやっており体は頑丈であったため、そういった苦境を乗り越えることが出来たのだと思います。何せ84歳まで自転車で走っていたし、最後まで背筋はピンと伸びていました。
:その苦労あってか、とても気遣いの出来る人でした。いつも、人より先回りして気を配り、自己犠牲の気持ちが強い人でした。子にも孫にもいたずらに頼ろうとしません。そればかりか、自分の二人の子供とその結婚相手、そして四人の孫の誕生日は必ず覚えていて、その日には何歳になっても小遣いをくれました。祖父の部屋に残されたカレンダーには、今月の僕の弟の誕生日と12月の母の誕生日に、印と名前が書かれてありました。
:職人生活が長いと言うと、頑固だと思われがちなのですが、そういった小難しいところは一切ありませんでした。母は怒られた記憶がないというし、僕もそうです。とにかく優しい。でも、恩着せがましい優しさではなく、ふと気付けば感謝しているような、そんな自然な優しさでした。そして、それでいて「怒ったら恐いだろうな」と思わせる強さがありました。
:祖父は、僕の理想の男の姿です。誰からも頼られ、慕われ、そして誰をも傷付けることのない男の姿です。
:あの夜、祖父の死の報を聞き、弟が大学から駆けつけました。四人の孫の中で、一番祖父に面倒をみてもらったのは弟です。弟が小さい頃、祖父は離れた家からわざわざ来て、保育所の送り迎えをしてくれていました。両親が働きに出て、僕も学校へ行っている間、祖父と弟が家で皆の帰りを待っていました。普段は感情を表に出すのが下手な弟ですが、祖父の死に顔を見た途端、声を漏らして泣いていました。母すらその姿に驚いていたのですから、僕には到底追い付けない思い出が、弟にはあるのです。
:祖父の顔を見て、ただただ出てくるのは、「ありがとう」という言葉ばかりでした。天国へ行って、祖母ともう一度仲良く過ごしてくれたらと切に願っています。そして、いつか僕もそこに加わって、もう一度家族になれたらと思っています。